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- ジェダイ・マスターが書いた矯正治療の本
昨年の話になりますが、矯正治療の本『矯正治療が楽しくなる JET system 入門』(成田信一・著)の編集協力をさせていただきました。 矯正治療は通常、終わるまで2~3年かかると言われていますが、成田先生が提唱・実践している「JET system」では7カ月で完了する事例もあります。さらに患者さんは「治療中も痛くない」とおっしゃる方がほとんど。従来の矯正治療とは大きく異なる、極めて画期的なものであることが分かります。本書にはそのノウハウが凝縮されています。 師匠はジェダイ・マスター? 本書の原稿は成田先生ご本人が書かれました。ここにちょっとした工夫があります。 矯正治療の本を含め、医療系書籍はいわゆる論文調・教科書的な“かたい”文章で書かれた本が多いですが、こちらの本は、成田先生と「医局員の若者ふたり」による対話形式になっているんです。これが読者の皆さまから「読みやすい」とご好評をいただいています。いい意味で「遊び」があるんですよね。 成田先生は映画「スター・ウォーズ」が好きということで、本書の中では「マスター・ショーン」という名で登場します。「ヨーダ」みたいな“師匠”ですねw マスターは時折、ジョークを織り交ぜたり、医局員のふたりとボケ・ツッコミを繰り広げたり、いつのまにか大好きな趣味ゴルフへと話題が逸れたりします。かくして、医療書籍としては「超異色」の一冊が生まれました。 「本文を対話形式にして読みやすく」——。これは「JET systemをより多くの歯科医先生に広めたい」という成田先生のアイデアによるものです。しかし「なかなか自分一人で対話形式の原稿を書くのは難しい」ということで、私にお声がけいただいた次第です。 クリニック経営の生産性向上、医師の働き方改革 本書の後半ではクリニック経営の生産性向上について、成田先生独自の考えを解説しています。これがまた見どころです。経営学者ピーター・ドラッカーの言葉を引用したり、『ザ・ゴール』で有名なエリヤフ・ゴールドラットのTOC(制約条件の理論)をクリニック経営に当てはめて論じたり――。 お医者さんの中には「医者は働いてなんぼ」という考えをお持ちの方も多くいらっしゃいます。自分もよくお医者さんのお世話になるので、本当に頭が下がる思いです。 医療現場の効率化を図ることは、そのような従来の医療者の考えに反する形にも見えてしまうんですね。しかし成田先生は、「医療現場の生産性向上を図ることが患者さんのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)につながる」と強く考えておられます。実際、成田先生のクリニックで治療を終えた患者さまが喜んでいる姿を見ると、本当なんだと思います。 2024年4月から「医師の働き方改革」が施行となりますが、きわめて時流に合致した考えということもできます。ちなみにクリニックの生産性向上は、矯正治療を短期間に成し遂げる技術と表裏一体関係になっています。詳しくは本書の後半をご覧いただければご理解いただけるはずです。 クリニック経営の生産性向上の話は、門外漢の自分にも大変ためになりました。ベースとなる部分は会社の経営そして生産性向上と同じなので。 成田先生、素晴らしい機会を誠にありがとうございました。ちなみに、自分の娘(7才)の歯は成田先生に見てもらいたいと思っています。 ※デンタルダイヤモンド社の本書のページはコチラ! https://www.dental-diamond.co.jp/item/1137 ※成田先生のクリニックはコチラ! https://402415.com/
- 体の一部になってしまった道具たち
娘とプールで泳いでいたらAQUASPHEREのスイム・ゴーグル(水中メガネ)が壊れてしまいました。しかも思わぬ箇所、ゴーグル本体とゴムバンドを止める「軸」が取れてしまって。このモデルはお気に入りで、同じものを3つ使い続けてきました。 もう5年近く使っているで、プラスチックが加水分解したんだと思います。それに、そこに輪をかけるように私の顔がデカいので。ゴーグル本体にもゴムバンドにも、相当な負荷がかかっていたのでしょうw これは仕方ありません。 壊れたゴーグルを見ているとさまざまな記憶が甦ります。 「こいつといろんなところを泳いだなぁ」 鎌倉で、荒天のなか開催されたオープン・ウォーター・スイム大会で溺れかけ、「助けてー!」とライフガードの方に手を振った時。高波にもまれながら、遠くの砂浜を、このゴーグルのレンズ越しに眺めていました。たかだか200m沖での出来事なのですが、はるか遠くに見えたあの砂浜。「もう、あそこに戻れないかもな」と思いながら見たあの光景。 別のオープン・ウォーター・スイム大会では――。クロールで泳いで左呼吸をした際、上空を行き交う2羽のカモメをゴーグル越しに見つめ、「あいつらは飛んでいる。俺は泳いでいる」と、なぜだかおかしい気分になりました。 日本赤十字の水上安全法講習会で5分間、立ち泳ぎを続ける猛訓練をした、あの苦しい瞬間もこのゴーグルと一緒でした。 そして沖縄の無人島に行き、さらにその沖に浮かぶ小島まで渡ろうと、島の間を隔てる激流を泳いで渡ったときも(ちなみに関係者の了承のもと島を訪れ、二重、三重のバックアップを用意し、入念な準備をして泳ぎました)。 本当に十分すぎるほど活躍してくれました。ありがとう。こういう愛着が湧いた道具を捨てるときって寂しいですね。 書く仕事をしている自分の場合、筆記具などが壊れて、捨てざるを得なくなったときの寂しさもあります。赤字入れ用のフリクションを、リフィルを替えながら長年使いまくった結果、グリップがフニャフニャになって「お別れ」するときとか。まぁ、消耗品なんですけどね。 このような「自分の体の一部になってしまった道具」を捨てて、新しいものに替えるとき、自分の身体や心の中にある「何か」も一緒に変わる気がします。願わくばそれが「自分が進化する瞬間」であってほしいものです。 という口実のもと、新しいスイム・ゴーグルをお小遣いで購入し、これからも水泳に励みたいと思いますw
- とりあえず「Yes, we can」?
今どき、思わず声を潜めて「こっそり」言ってしまいますが、私は英会話ができません。 せいぜい、海外のホテルでチェックイン/チェックアウトの手続きをしたり、レストランでメニューに書かれた料理がどんなものかカタコトで聞いてなんとか理解する程度(で、料理が出てくると、思っていたのと違ったりする)。 大学受験の時、代ゼミの全国模試で英語の偏差値88だったのですが、まったく関係ありませんでしたw でも世界の人たちと話をしたいので地味に勉強しています。 今取り掛かっているのが(というか、長年読み終えられずにいるのが)『オバマ傑作演説集』という音源CD付き書籍です。有名な「Yes, we can!」をはじめ、前向きな英語表現ばかり。読んでいる・聴いているだけで気分が上がります。 オバマ元大統領の演説で強く感じるのは「人々を巻き込む力」です。 とにかく「we」とか「our」が多い。「”私たち”はできるんです!」とか「”私たち”が抱えている課題は~」とか。聞いている人は皆、いつの間にか「自分ごと」として聞き入ってしまいます。米国大統領の演説ってそういうものなのでしょうか? 対して、日本の総理大臣の演説・談話はそうではないように思います。「政府としては」「国民の皆さまにおかれましては」「与党は」「野党は」のように語られる。意図せずとも「対立する人」をつくる話し方となり、たくさんの人を巻き込みにくい印象があります。 それこそ「Yes, we can!」で有名な、オバマ元大統領の2008年ニューハンプシャー州予備選挙演説には次のようなくだりがあります。 「Whether we are rich or poor, black or white, Latino or Asian ~, we are ready to take this country in a fundamentally new direction.」 (富める人も貧しい人も、黒人も白人も、ヒスパニック系もアジア系も~この国を根本的に新しい方向に作り替える覚悟ができているのです) 「Democrats, independents and Republicans who are tired of the division and distraction that has clouded Washington」 (民主党員、独立派、共和党の皆さん、ワシントンを覆ってきた対立と混乱に飽き飽きしています) 所得など関係なく、人種も政治思想をも超えて、聴衆を巻き込みます。 そして、すべての人を巻き込んだ演説の終盤――。 「このフレーズは独立文書にも書き込まれています――Yes, we can」 「このフレーズを、奴隷や奴隷制度反対者がつぶやきました――Yes, we can」 「過酷な荒野に挑み、西に向かって前進し続けた開拓者が唱えました――Yes, we can」 「労働組合を組織した人々、参政権獲得を目指した女性たち、新たなフロンティアとして月を選んだ大統領がよびかけました――Yes, we can」 「Yes, we can――私たちの繁栄の機会に」 「Yes, we can――この国を治すために」 「Yes, we can――この世界を再生するために」 同じ目標に向かう一つの「America」として、聴衆を”United”していきます。オバマ元大統領が話すたび、聴衆から大歓声が上がります。まるでロック・ミュージシャンのライブのようです。聴いていると、ちょっと感動してしまいます。 この教材で引き続き英語の勉強をしていきたいと思いますが、一つ心配ごともあります。 万が一、英語圏の会社と取引きすることがあって、先方から”難しい球”を投げられた時。 あんまりよく考えないまま、調子こいて「Yes, we can!」とか言ってしまいそうなので。 ※2008年ニューハンプシャー州予備選挙演説はYouTubeで観ることもできます。 https://www.youtube.com/watch?v=Fe751kMBwms&t=96s
- メンターと勝手に慕っている人と釧路の鮨屋で飲んでいる時、すすめられた本
『暇と退屈の倫理学』を読みました。読後感をひとことで言い表すのが非常に難しい――。強いて言えば「面白かった!」ということになります。これは間違いありません。 序盤の、 「いったいどれだけの人が自分の『好きなこと』をしているか?」 「『好きなこと』という表現から『趣味』という言葉を思いつく人も多いだろう。(中略)ところが今では『趣味』をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。」 このようなくだりに、思わずハッとさせられます。心の中でモヤモヤしていたものが急に鮮明になったような。SNSでキラキラして見えるモノは、概ね上記に当てはまるように思われます。良い・悪いではなく。 これは、私たちが「マーケティング」と称してやっていることをズバリ指してもいます。必要なことではありますが、一消費者として冷静に考えると、怖い気もします。 中盤から最後にかけては、哲学の面白さ(の片鱗)を堪能しました。 「できればこういうことを考えながら残りの人生を生きていきたい。直接お金にはならないかもしれないがけれど、大事だよな」 そんな思いがしました。 本の中で紹介されている映画『ファイト・クラブ』をNetflixで初めて観ました。これまた面白く……。 どんな感想を持ったか、たくさんの人と議論してみたくなる一冊でした。
- 屋久島とカバーヨ・ブランコと人口減少
20年くらい前の古い話で恐縮ですが……。鹿児島県の屋久島を訪れた時、ウミガメの産卵地として有名な永田浜(ながたはま)という場所を訪れました。夜訪れたので、懐中電灯を持って浜を散歩しました。 直後に知ったのですが、その砂浜はウミガメを保護するため、夜は勝手に入っていけないことになっており、特に懐中電灯のような人工的な光源は「ウミガメを刺激する」ということで使用が禁止されていました。「それでもウミガメの産卵が見たい」という人たちのために、ウミガメの産卵を見学する有料ツアーも用意されていました(今もあるようです)。 かくして、呑気に夜の砂浜を歩いていると、監視員の人が走ってきて「懐中電灯はやめてください!」と注意されました。まったく……。事前に何も調べず訪れた、こちらに落ち度がありました。反省。 一方、心の中に腑に落ちないものが残りました。 自然と向き合う、対峙する――。これは今や、容易には得難い「贅沢な体験」なのかもしれませんが。「自然」と「人」との間に「監視員」のような人や組織が入り込むとしたら――監視員の管理の元でウミガメの産卵を見学するとしたら――それは”本当の意味でウミガメの産卵を見た”ことにならないのではないか? お金を払って用意された「ウミガメ産卵ショー」を見ている感じにならないか? 自然と対峙する体験にはならないのではないか? 子供の頃から自然まみれで生きてきた田舎者の自分は、そう感じてしまいました。 ※念のためですが、自然保護には手間暇もお金もかかるため、有料で見学ツアーを実施するのは合理的で素晴らしい、誰もが納得のいく取り組みだと思います。 なぜこんなことを思い出したのかというと近頃、「こんな装備で山に登るなんて無謀だ」、みたいな意見が聞かれるようになったからです。 それはその通りなのですが、一方で、誰にも指図されず「自分」と「自然」がじかにぶつかり合う体験をする余地も、世の中にあってほしいと思うのです。例えば、書籍『Born to Run』でカバーヨ・ブランコが、たいして水も食糧も持たず、地図さえ持たず、何日間も”ただ愉しむため”に、荒涼とした岩石砂漠を走り続けたように。 今はオーバー・ツーリズムという問題もあるでしょう。だとしたら、日本の人口が減ったらそういうことが、おおっぴらに、また可能になるでしょうか。 というか、クマが山から降りてきて人を傷つけたり、鹿が人里近くにやってきてマダニをまき散らしたりということが、すでに起きているわけですが。将来の日本では、イヤというほど人間は自然と対峙しなければならなくなるかもしれません――。しかし、それはそれで興味深いと思う気持ちも正直あります。 まぁ、人間は勝手ですよねというお話でしたw
- 「食」を通じて心身と自然とを同期する
ダイエットとか、お酒を控えるとか――。実際に「やろう!」と思っても、なかなかやり遂げるのは難しいですよね。 『FULL POWER 科学が証明した自分を変える最強戦略』の著者ベンジャミン・ハーディは本の中で次のように言っています。 意志力で自分を変えようとするのは難しい。人間は「環境」の産物であり、「自分」と「自分の周りの環境」を分けて考えることはできない。ゆえに自分を変えようとするなら、自分の周りの環境を変える必要があると。 例えば、「ついついジャンクフードを食べてしまう」「家に帰ってなんとなくテレビをつけてしまう」……そのような習慣をやめたいなら、「ジャンクフード店に近づかない」または「ジャンクフードが好きな友人と距離を置く」、テレビについては「コンセントを外しておく」「いっそのこと捨ててしまう」といった具合。環境を変えればやめることができるぞと。 似たようなことは、行動科学とか他のセルフマネジメント系ビジネス書にも書いてあるんですが。「自分を取り巻く環境を変える」――。著者のベンジャミン・ハーディはこれを「環境にアウトソースする」と表現しています。「アウトソースする」って、うまい言い方だなと思います。なんだかラクにできそうなので。 9月の始めに柿を食べた時、この本のことを思い出しました。 食べた瞬間「カラダが秋になった」感じがしたんです。季節のものを食べると、そういう感覚になることがよくあります。「カラダと自然が同期する」というか。 春だとタラの芽、フキノトウ、春キャベツ。初夏の新ショウガ、真夏のズッキーニやスイカ、関西出張でいただく鱧の湯引き。秋冬なら、お鍋でいただく白菜・大根、魚はキンメダイやクエなど、季節のものを食べた時。 平たく言うと「季節を感じる」っていうことなんですけど。普段、自然と離れた場所で生活していると、なかなか季節を感じることがない。でも、海山川で育ったものをいただくことで、食を通じて季節を感じることができる。そうすると気分が良くなるし、体調が良くなる感じもする。 これは、「おいしい」と味覚で感じることと同じくらい、大事なことだと思うんです。本来、季節という環境変化に応じて、人の心身は変わるんじゃないか。季節感に乏しい生活をしていても、心身を季節に合わせて調整していく必要があるんじゃないかと思います(←完全な主観)。 これって本書のメッセージ「人間は『環境』の産物である」「自分を変えるためには環境を変えよ」と似ています。 つまり、季節が感じられない現代人には「季節が変わります」とカラダに伝えるためのトリガーが必要だぞと。そのために、季節ごとに意識的に食べ物を変えていくのがいいんじゃないかなと。 「美食家になろう」というのでは全然なく、心身のマネジメントのためにやる。 というわけで、今日も夜のビールと食事を愉しみに仕事をしてまいりたいと思います。ダイエットやお酒を減らすこととは、真逆の話になってしまいました。 ちなみに自分の体重が90kgに届きそうで、若干そこは心配ですがw。まぁ、自分は北海道出身なので、冬眠前のヒグマのようにこれはこれで「カラダと自然が同期している」ということにしたいと思います。